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智積院の晩秋

真言宗智山派の総本山。総門や大書院は、江戸時代の遺構、堂内のご本尊大日如来さま。

元々「根来山内の学問所」でしたが、近世に入り豊臣秀吉と対立し、根来が攻めてきたことにより炎上。当時の住職であった玄宥和尚は、弟子たちとともに高野山へと逃がれました。玄宥(げんゆう)は戦国時代から江戸時代前期にかけての真言宗の僧ですが、以後、玄宥は、真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とした後、慶長5年(1600年)秀吉亡き後、再興の訴願を続けていた玄宥に徳川家康から智積院再興の許可が出され、翌年慶長6年(1601年)に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院を再興、復興します。

 

庭園は「利休好みの庭園」と伝えられ、豊臣秀吉が建てた祥雲寺時代から智積院になってからは「東山随一の庭」といわれるようになりました。

特に大書院から庭園が眺められ、5月下旬になるとツツジが華やかになり多くの観光客が訪れます。

いつ訪づれても凛とした佇まいのもと、とても心落ち着くお寺です。