外国のお客様の古都への憧れのキーワードに「Off The Beaten Track Itineraries or Unbeaten Tracks Itineraries」(観光客にあまり知られていない場所)、古刹(こさつ)があります。
元々は明治の初めの英国人紀行作家ビショップ夫人の"Unbeaten Tracks in Japan"(日本奥地紀行)から派生したキーワードかと思います。
女史は、この紀行文の中で日本の安全性や日本人の勤勉さとホスピタリティを高く絶賛。当時から日本の社会は、東北の片田舎でも、精神論としては文明国家だったことが伺い知れます。
私もご案内する際には、例え著名な観光寺でも、"Unbeaten Tracks"の精神を大切にしながら対応しています。
今回のご紹介は観光客はまずは訪づれることのない遺構の一つ「西寺」(さいじ)。
ときは823年(弘仁14年)嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏(しゅびん)に西寺が与えられ、両寺は常にライバルとして平安京の守護を担っていました。空海とは何事にも対立していたとされる守敏は、真言密教にも通じていたとされる僧都(そうず)の位にある高僧。
しかし、翌年の干ばつの時、有名な神泉苑での雨乞いの儀式で空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったものの地蔵菩薩に阻まれたとの逸話も伝わっています。現在、羅城門跡の傍らに「矢取地蔵」が祀られています。同じくして西寺も寂れていったとされます。
当時の平安京のメインストリートは「朱雀大路」、その南端には、芥川龍之介の著書でも有名な「羅(生)城門」(らじょうもん)が都の正門に聳え、その門を入ったすぐ右手が「東寺」、左手が「西寺」です。
現在の西寺は、発掘時出土した金堂礎石の一部が残るのみですが、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認されています。塔跡の礎石は、南側にある唐橋小学校の敷地付近と思われるものの、地下に埋もれているのか、すでに破壊されたのかは、今でも分かっていません。
でも、羅城門から聳え立つ平安京のランドタワー、東寺、西寺の塔は、平安京の玄関にふさわしく威風堂々と都を守っていたものと容易に想像できると思います。
あまり知られていない京都観光、思い出に残るご観光をお楽しみください。