勧修寺(かじゅうじ)。真言宗山階派大本山。門跡寺院。山門にいたる参道の両側は、白壁の築地塀が続きます。書院の前庭には、水戸光圀より寄進されたと伝わる石灯籠があり、庭の池は「氷室の池」といい蓮の花で知られています。平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと伝えられます。
「今昔物語」が伝える勧修寺創建にまつわるお話。
平安時代初期の廷臣、藤原冬嗣の孫の高藤(たかふじ)が十五、六歳のある日、タカ狩りに出かけ道に迷い雨宿りにある家に立ち寄ると、そこに娘がいた。一夜を過ごし、結婚の約束をして帰るものの、恋い焦がれつつ六年の歳月が過ぎ、再び訪れたとき、美しく成長した娘と自分とよく似た五、六歳の女の子がいたとのこと。
この家の主は、郡の長官、宮道弥益(みやじいやます)で、その娘(列子(たまこ))を嫁に迎えた高藤は内大臣に出世。その子供、胤子(たねこ)は宇多天皇の女御となり、後に醍醐天皇の生母となったことから「玉の輿(こし)に乗る」という言葉がここから出たと伝わります。
その後、宮道の家は寺となり、高藤の諡号(しごう)をとって「勧修寺」と号したと伝わります。
なお、この高藤の子孫には源氏物語の作者、紫式部もいます。
このあたりの地名は勧修寺で、呼び名を「かんしゅうじ」と言います。お寺の名前と微妙にちがうところも面白いです。